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取引費用理論(TCE)とホールドアップ問題とは?摩擦を制するものが関係性を制す

作成者: 唐澤裕智|Mar 26, 2024 1:47:10 PM

~SIerおよびSES会社の経営に役立つ経営理論シリーズ:取引費用理論(TCE)編①~このシリーズは、入山章栄氏の「世界標準の経営理論」で紹介されたビジネスパーソンが最低限押さえておくべき経営理論のポイントを紹介し、SIer・SES会社をはじめとするシステム開発会社の経営において応用可能な点を考察するものです。

入山氏による解説
【入山章栄・解説動画】取引費用理論(TCE)
将来の見通しが立たない時、ビジネスの「取引」にどう対処するか

取引費用理論(TCE)とは?

取引費用理論の定義

「取引費用理論」(Transaction Cost Economics)は社外との関係では契約成立前後に買い手と売り手の間、社内では上司と部下の間で、さまざまな取引費用が発生しており、社内外における取引費用の多寡が企業の境界や、企業間の関係性に決定的な影響を与えているという理論です。後述のホールド・アップ問題の構造解明とその解消法を示すところに意義があります。

取引費用の種類

取引費用の具体的には以下のようなものがあります。
①取引前費用
a) 探索費用+調査費用:ふさわしい取引相手の探索
b) 交渉費用:値段交渉、契約交渉
c) 契約費用:ドラフティング、契約作成等

②取引後費用
a) 監視費用:(契約内容が守られているか)モニタリング、監視
b) 救済費用:(相手側による契約不履行の際)契約条項の発動
c) 紛争解決費用:(契約違反でしかも協議が調わない場合)クレーム、訴訟等ドラフティング、契約作成等

参考)
The Problem of Externality 138頁
取引費用節約原理から考察する日本型経済諸制度 290頁

取引費用理論に注目する理由

なぜ取引費用理論(TCE)に注目するのか?

取引費用理論は、他社と取引をするにしろ自社内で業務を回すにしろ、常に取引費用(取引コスト)がかかるという、当たり前ではあるがビジネスを営む上では絶対に無視できない点に着目しています。

これにより、そもそも目の前の仕事は自分たちでやるべきなのかどうか、または、このまま外部の企業に委託し続けてしまっていいのか、という問いを考えるにあたって、基本的な視座を与えてくれます。

これは物理学における「摩擦」のように、目立たない割には実はとても重要な点に着目することを習慣づけることで、より質の高い意思決定を行うことを助けてくれます。

また、取引費用が会社の命運を左右するような「ホールド・アップ問題」(お手上げ状態)が発生する原因を理解することで、リスクマネジメントや仕入れ先の分散化・選定方法、業務の改善などを行うきっかけとなります。そして、会社全体のガバナンスおよびその実効性の観点から力強い意思決定を助けてくれます。

本記事では取引費用の具体的な内容と、取引費用が大きくなった場合のホールドアップという問題が発生する場面と、それを避けるための方法について解説します。

ホールド・アップ問題とは?

ホールドアップ問題とは、契約が不完備であるために投資からの収益が十分に得られず、事前の投資水準が過少となることを指します。

参考)情報とインセンティブの経済学 248頁

「契約が不完備である」というのは、将来起こりうる事象はすべて知りえないため、完全には契約に「もし〇〇が発生したら、〇〇の対応を行う」といった規定を書き込めない、ということを意味します。

「事前の投資水準が過少になる」とは、本来投資をすればより大きな利益を必要があるのに、予測不能な事態について契約書に書き込めず(例:買い手が一定数以上買い取ることや一定期間以上契約することを約束するなど)、利益の確保ができないため、売り手が自らにとって損失が発生することを回避しようとして、結局投資が行われなくなる、ということを意味します。

社外との取引におけるホールド・アップ問題の例

具体例としてよく挙げられるのは、製造業のメーカーとサプライヤーのケースです。

メーカーAがサプライヤーBから部品を仕入れており、その部品がサプライヤーBがメーカーAだけのために特別に投資して生産しているもので、製造ノウハウもサプライヤーBにのみ蓄積しているような場合です。サプライヤーBがメーカーAのために特別に投資している場合、メーカーAに対して独占契約を要求している(他の仕入れ先には発注しないで欲しい)可能性が高く、投資した初期費用を回収できるように価格もある程度高く設定されているとします。

ここまではメーカーAとサプライヤーB双方が納得の上で契約までしている状態です。

しかし、ここで急激な市場の拡大で需要が増えたとしましょう。

メーカーAとしては以下のような対応を望むはずです。

  • Bとの独占契約を破棄し、他のサプライヤーにも同じような部品を作ってもらい、できれば競争原理を持ち込み仕入単価を下げる

  • サプライヤーBに増産体制を構築してもらい、規模の経済によるメリットを享受する

  • 輸送費削減のためにAの工場の近くにBの工場を移管してもらう

しかし、サプライヤーBとしては、拡大した需要が将来にわたって維持されるかどうかわからない以上、当面はBにとって有利な状況を確保するために機会主義的行動(自社の利益を優先して、相手の足下を見る選択をすること)をとるのが合理的です。

  • Aに対して他の仕入れ先の追加は認めず、価格は据え置きにする

  • サプライヤーとして設備の増築など追加投資は行わない

  • 工場の移転なども行わない

このように売り手のBが投資の機会があるにもかかわらず投資を控えてしまい、買い手のAとしても従来の契約を維持せざるをえない「お手上げ」状態をホールド・アップと呼びます。

社内での取引におけるホールド・アップの例

その他の例として、ある会社において、会社がリファラル採用を行うために従業員に対して知り合いを紹介をしてくれたら謝礼金を支払うと宣言した場合が考えられます。

実際に面談をしてみたらスキルが足りなかったとか、最終面談を通過できなかったとか、入社後にスキル不足が露呈したなどの理由で紹介をしてくれた従業員に謝礼金を全部または一部を支払わなかったとしましょう。

従業員としてはすでに自分の時間と個人的な人間関係を会社のために投資してしまっていますが、会社との間で細かな契約を結んでいるわけでもないため、就業規則にしっかり規定でもされていないかぎり、「お手上げ」(ホールド・アップ)状態になってしまいます。

このようなことになるのであれば、次からは同じようなことは事態に陥りたくないと考えて、それ以上会社に対して知り合いを紹介することはなくなってしまいます。

なぜホールド・アップ問題が発生するのか?

ホールド・アップ問題が発生する直接の要因は、

  • 人および会社が将来に関するすべての情報を基に判断できるわけではない(限定された合理性)なかで、
  • 自社の利益を優先して、相手の足下を見る選択をする(機会主義的行動)

によって引き起こされます。

とはいえ、全ての人が常に機会主義的行動をとるわけではありません。性格の問題としてどんな時でも機会主義的行動をとりがちな利己的な人もいますが、そうではなくとも、以下の4条件の程度が高い場合にはどんな人であっても機会主義的行動をとる可能性がたかまります。

  • 不測の事態の予測困難性
  • 取引の頻度・複雑性
  • 関係特殊性

不測の事態の予測困難性は、文字通り将来何が起きるかはわからないということです。したがって契約時には想定していなかったことがおきると、契約当事者のどちらか一方にとって有利な状況が発生する可能性があります。売り手側にとっては、自社に有利な状況であればそれを利用し、自社に不利な状況であればこれ以上損失がでないように自社の事情を優先するのは当然のことです。

取引の頻度とは、短期で1回~数回しか行われない低頻度の取引か、長期にわたって高頻度で行われる取引なのかを意味します。短期のつきあいであれば、機会主義的行動をとりがちであるのに対し、長期の付き合いであれば信頼関係構築を優先して機会主義的な行動を避ける可能性が高まります。

取引の頻度が低い場合は取引そのものの複雑性も低く、逆に取引の頻度が高い場合は長期にわたって取引の内容が変化していくことで取引の複雑性が大きくなる可能性も高まります。

関係特殊性とは、複雑な取引を実現するために設備や人に特殊な投資をしなければならない状態を指します。

これらの程度が高いほど、ホールド・アップ問題が発生しやすくなり、取引費用も上がることになります。

なお、契約後に契約の一方が自分の利益だけを考えて、相手にとって不利な選択をするという意味では、「エージェンシー理論におけるモラル・ハザード問題とは?」で解説したモラル・ハザード問題と重なります。ホールド・アップ問題は、モラル・ハザード問題の下位概念で、1つの具体的なパターンとして分類されています。

取引費用の大小に即した対応方法

取引費用が小さい場合:市場からのスポット調達・アウトソース・事業売却

取引費用が小さい場合は、市場において競争原理が働きやすい状態だといえるため、そのまま外部からの調達を継続します。社内に同様の事業やリソースがある場合は、アウトソーシングや事業の売却・分社化などを検討する必要があります。

取引費用が大きい場合:仕入れ先の買収・自社内での内製化推進

取引費用が大きい場合というのは、ホールド・アップ問題が発生している状態といえます。この場合は、取引費用の削減のために、一時的に大きな費用はかかるが、中長期的な観点から、仕入れ先を買収してしまう、という手段があります。買収費用はかかりますが、一度内部に取り込んでしまえば、取引費用が安くなるため、中長期的には買収費用を超える利益を生み出せます。関係特殊性が人的要素のみである場合は、仕入れ先のコアメンバーをヘッドハンティングして内製化を推進することも考えられます。

取引費用が中程度の場合:仕入れ先の分散・契約期間細分化・標準化

取引費用が極端に大きいとも小さいとも言えない場合は、ホールド・アップ問題(取引費用増大)の度合いが大きくなる原因にそれぞれ可能な限り対処することになります。

つまり、契約期間も長期にしつつ一括ではなく細分化し、業務は他の仕入れ先にも対応できるように標準化を進めながら、仕入れ先を増やして分散化させます。

そして業務ルールがある程度確立されて不確実性の低減がなされた後であっても、引き続き仕入れ先が機会主義的行動をとる余地が残っている場合は、カスタマイズした契約内容に変更して、機会主義的行動を抑制する必要があります。

なお、ホールド・アップ問題が、モラル・ハザード問題の1つのパターンであることを上で述べましたが、モラル・ハザード問題の有効な解決手段が「相対評価」であることを踏まえると、適度な競争原理を持ち込むという点で同じような解決方法であることを確認できます。

取引費用理論(TCE)に関する実証研究

取引費用理論においては、不測事態の予測困難性(不確実性)が高く、取引の頻度が高く(複雑になりがち)、関係特殊性が高い場合には、自社内に事業・業務を取り込んだり維持したほうがよく、逆にこれらの要素が低い場合はアウトソースした方がよいという「仮説」が提示されています。

直感的には正しそうではありますが、実際にこの理論にしたがってアウトソース・インソースを決定し、さらに企業の業績がよくなっているかどうかのデータを集めて分析する実証研究があります。

Organizing Around Transaction Costs: What Have We Learned and Where Do We Go from Here?

この研究は1980年代中ごろから2010年代はじめまでに行われた様々な分野の取引費用に関する実証研究の143本をまとめたメタアナリシスで、結論としておおむね取引費用理論にしたがって判断した会社の方が企業の業績はよくなるという結果に至っています。

しかし、アウトソース・インソースの是非を決定するには、取引費用理論だけで全てを説明しようとするには限界があり、他の観点で補強する必要があるとも述べられています。具体的には以前の記事で紹介したRBV(Resource-Based View:リソース・ベースド・ビュー:資源ベース理論)のことを指しており、取引費用理論とRBVを組み合わせることでより業績の向上に資する意思決定がやりやすくなる可能性があります。